大人と子供、二人の私が、私の中に住んでいる。
「なぁ、知ってるか?お前、男子の中で結構人気あんぞ。」
放課後の理科第六準備室で、先生は意地悪な顔でそう言った。理科第六準備室は、先生――島崎慎吾先生の私室のような部屋だ。私の通うこの学校は先生に一室ずつ教科準備室が与えられている。私は部屋の真ん中に置かれた少し古いソファに座りながら、そんな先生をジトリとにらんだ。テーブルを挟んで向かいのソファに座っている先生は、そんな私を見てさらに意地悪な顔をする。
「そういう話、私は嫌いです。」
「俺は大好きだ。」
「先生が好きであろうと、私は嫌いなんです。」
「俺が大好きなんだ、だからお前は黙って聞いてりゃいいんだよ。」
「どれだけわがままなんですか。」
言い切った先生にあきれながらそう言えば、先生はハハハッと笑う。軽やかな笑い声が、耳の奥に響いた。窓から差し込む夕日が当たる背中がすごく暑くて、私はあまり笑う気分にもなれない。先生はクーラーがバンバンに当たるところにいるから暑くないのだろう、とても涼しげな顔をしていた。…少しむかつく。
「お前、クールビューティーとか呼ばれてるらしいな。下級生の間じゃ、『大人の女性って感じがする』って言われてるぜ。」
「…いいじゃないですか、なんて呼ばれていようが、なんて言われていようが、そんなこと。……なにがそんなに笑えるのか、よくわかりません。」
「いや、別に。ただ、大人の女性ってのはあんま、当たってないなって思って。」
先生はそう言って、テーブルに片手を着いて身を乗り出した。テーブルの木の足が、ミシリ、と軋む。そしてもう片方の手が私の頭の上に乗った。
「頭撫でられて、こんな顔するお前が大人の女性なんて、俺は思えない。」
そう言って、先生は私の頭をグシャリ、と優しく撫でる。その瞬間、私は身体の全ての力が抜けきってしまうのを感じた。…いつもこうだ。先生に撫でられると、いつも肩に入っていた力までもが抜けていく。先生曰く私はこのとき、とても子供のような顔をするらしい。
理科第六準備室に行くのは、私の日課だった。理科係の私がソコに行くのはとても当然のことで、誰もそれを気に留めたり咎めたりもしなかった。だけど、理科係なんて、私が先生に会いに行く口実のためになったものなのだ。
あれは、今年の春のこと。三年生に進級した私は、今まで築き上げられてきた優等生という座を守り抜くために必死だった。いつどこで誰かに見られているかもしれないからと、気が抜けない生活を送っていた。そんなある日、休んでいた理科係の変わりに先生に授業の宿題を集めて来いと言われたのだ。当然断るわけもなく、私は理科第六準備室へと宿題を届けに行った。
「じゃあ、ご褒美、な。」
そのとき先生が気まぐれにした行為が、私を変えた。先生が、ただなんとなく、私の頭を撫でたのだ。その瞬間、私はそのご褒美の虜になった。今まで、こうして頭を撫でられることなどなかったのだ。先生からのご褒美は、私にとっては甘い甘い蜜のようなものだった。蜜の味を忘れらない虫のように、私もまた蜜の味を忘れられなかった。先生のご褒美がまた欲しくて、次の日には理科係の子に頼んで理科係を変わってもらったのだ。それから私は毎日、何かと理由をつけては理科第六準備室にやってくるのだ。
「お前、俺以外の前じゃ大人ぶってんだな。」
「…先生の前でも十分大人でしょう。」
「は?どこがだよ。」
先生は私の言葉を面白そうに笑う。別に、意識しているわけではない。ただ、自然と、先生の前だと大人になろうとがんばる私が、力を抜いてしまう。子供のままでいたい私が、全身を支配するんだ。先生の手はいつの間にか私の頭から離れていた。物足りなさがだんだんと私の心を支配して行き、私は先生を見詰め、私の頭から離れてしまった先生の手を掴む。
「…ほら、お前は子供だ。」
そうすると先生はまた笑うんだ。そして、まるで仕方ないとでも言うみたいに呆れたような声でそう言うの。私はそのときの先生の声がたまらなく好き。先生の手が再び私の頭の上に乗る。フと見た壁掛けの鏡に映った私は、なるほど、甘える子供の顔をしていた。
ネバーランドの在り処